退院

父がようやく退院しました。
朝早くから迎えに行って、実家に送り届けてきました。


父に話を聞いてみると「やっぱり死ぬのが怖くなった」と言っていました。
これまで、「いつ死んでもいい」と言ってた人だったのですが、これを聞いてほっとしました。


「いつ死んでもいい」というのは、死ぬ準備ができているように聞こえそうな言葉です。
やるべきことをやりきった、というような感じに。


でも、いつまでもやるべきこと、やりたいことはいくらでもあるし、それができなくなるのはいやだって思うほうが自然なんじゃないかって思っています。
それでも死んでもいいやって思えるのは、自分が価値的なことをしているとは思っていない場合。
自分が死んでもなにも変わらない、と思っていたらそう言えるのかもしれません。


子供である自分にとっては、元気で生きていてくれることはそれ自体で価値のあることです。それに、まだまだ体も心も元気なのだから、いろいろと意味のあることをしようと思えばできるとも思えます。まだまだ日々を充実させて生きてほしいと思っていました。


だから、今日聞いた言葉は、どこか人生に対して投げやりなところがあった父が、人生に対して真剣に向き合う決意をした一言のように感じられました。


僕の卒論のテーマは「死の教育(デスエデュケーション)」でした。
死にゆく人たちが、どのように死を受容していくのか、そういう関連の本などはいろいろ読みました。
その中で、本当に死を受容していくということは、死の恐怖から逃げるのではなく、それを認めることなんだなと感じました。


死ぬことは怖い。それを認めて、だからこそ有限の時間を価値的にしていこう。
そうした心構えでもっと一日一日を大切にしていこう。
多分、今回の入院、手術を通じて父が感じたことはこんなことだったんじゃないかと思います。


普段は忘れてしまうけれど、この心構えで僕も頑張っていこうと心を新たにしました。